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けれど、風はその冷たさを運んでいたずらに舞い踊る。
ひらひらくるり
(うーん…そうじゃないんだけどなぁ)
一之瀬は黒板に書かれた英文の和訳に心の中で一人ごちた。
なんか、こうさ…と一人で思いつつ
仕方なさそうにペンを走らせる。
退屈な授業。
一之瀬にとって英語は一番の得意科目で、一番の苦手な授業だ。
だんだん重くなる瞼に、必死にあらがうように頭を軽く振るけれど
窓際に席を置く彼にはそれを振り払うのは難しかった。
仕方なく、一之瀬は窓を開ける。
とたんに風がカーテンをはらませて、涼やかな風を教室に運ぶ。
冷たい風の心地よさに一之瀬はほっとして、何気なく窓の外を見やった。
同時に彼の瞳は、あるものを捉えて
口もとは、すぐに優しい笑みを浮かべた。
窓から見える雷門中のグランドでは、木野秋のクラスが
体育の授業でサッカーを行っていた。
いまや雷門の代名詞の一つにもなったサッカーは、授業に取り入れられている。
秋は、グラウンドの中を軽やかに走っていた。
その足元には白と黒で装飾されたボールがまとわりついている。
ドリブルをしているというのに、彼女はまるで足元を見ていない。
(相変わらず、ドリブル得意なんだな・・・)
一之瀬はにやける口元をかくすように手で口元を覆い、机にひじをつく。
風に運ばれて、グラウンドの喧騒がかすかに聞こえてきた。
一之瀬は秋のドリブルに、幼い日の彼女を重ねた。
あの時と変わらない好奇心と優しさに満ちた瞳の色が、
ずっと一之瀬の心をつかんで離さない。
まっすぐに前を見てゴールを目指す秋の前に、相手のチームがディフェンスとして
立ちはだかった。
(え!)
一之瀬は、瞬間目を疑う。
秋は、足元のボールを止めたと思うや否や
自分の体を縦にして、DFの体を止めて
くるりとかわして反転し、そのままの勢いで走り過ぎていく。
(あれ…、マルセイユルーレット!)
アメリカのあの幼い日に
一之瀬が、秋と土門の目の前でやって見せたことがあった。
それを見た秋は、興奮して自分もやりたいと言い出したのだ。
彼らは秋には無理だと言ったのだが、どうしてもやりたいと
珍しく秋が言い張ったことがあった。
しかし、結果は言わずもがな。
出来ずに、悔しさに目に涙をいっぱいためていた秋の顔が目の前に思い浮かんだ。
(いつのまにか…出来るようになってる…)
記憶の中の彼女とは違うという驚きの中で一之瀬が見つめる。
そのさきで秋の放ったシュートは、ゴールに届いた。
喜ぶチームの幾人かに囲まれ、秋は笑顔になった。
その笑顔を映して、一之瀬は制服の胸元を思わずつかんでいた。
*********
稲妻町の空は、夕焼けに赤く染まっている。
すっかり冷たくなった風は、秋という季節の匂いをまとって
サッカーコートの上に残っている季節と同じ名の少女の髪を揺らす。
部活動が終わり、残っていたボールを拾うと、それを籠に入れ秋はため息をついた。
自分の足元から伸びる影は、色濃く長く伸びている。
すこし肌寒く感じる空気に、秋は腕をなでた。
(もう、この時間は寒くなってきたなあ)
秋は、空を見上げてほう、と息をついた。
ふいに、トントン、と聞きなれた音が彼女の耳を打ち
秋は少しの驚きと共にそれを探す。
めぐらす視線の先、秋の足元に、音の原因であるボールがコロコロと転がってきた。
(あれ、まだ残ってたのかな?)
全部しまったはずだったんだけど、と思いながら
それを拾おうと手を伸ばす秋の視線の先に、泥で少し汚れたスパイクの先が目に入った。
思わず顔を上げると、そこにはジャージ姿の一之瀬が立っていた。
「一之瀬くん?」
少し意外そうに、秋が声を出した。
その声に、一之瀬はにこりと笑うと
秋の足元にあったボールを足でくるりと器用に
彼の足の甲の上にもちあげた。
「どうしたの?まだ帰らないの?」
難しいのに当たり前のような見事なボールさばきに、笑みを浮かべながら
秋は一之瀬に問いかけた。
一之瀬は何も言わずに、笑ったまま秋を見つめて
そのボールをインサイドで丁寧に秋に蹴りだしてきた。
「…え?」
「ヘイ、パス」
「何?」
「いいから」
「で、でも…」
一之瀬は笑いながら距離をとり、秋を促す。
秋は足元に転がってきたそれに、すこし戸惑いながらも
夕日の中で、影を作りだすボールを遠慮がちに蹴りだした。
ボールはゆっくりと、でも真っすぐに一之瀬の元へと向かっていく。
パスを受けた一之瀬は、目を伏せながらも微笑んだ。
すぐに彼から彼女へとパスが繰り出されて
無言のまま、二人はボールをけり合った。
「なんか、こうしてると」
「ん?」
「アメリカの時のこと、思い出すよね」
「・・・、うん、そうだね。」
秋は肯定しながらも、目を伏せる。
アメリカのあの思い出はとてもとても大切で、でも
心と身が引き裂かれそうなほどの痛みと悲しみにも彩られている。
秋の心の動揺が、繰り出すパスの軌道をそらさせた。
一之瀬はなんのことはないように、帰ってきたボールを受けた。
「よく三人で、こうやって遅くまでサッカーしたよね」
「うん」
「…アキは」
「ん?」
「サッカー、好き?」
そう問いかける一之瀬の声は、静かな響きを持っている。
秋が答えようとした瞬間、彼はゆっくりとしたドリブルで秋に向かってきた。
「えっ」
思う間もなく、茶色の彼の髪が目元でひらりくるりと舞って。
秋はその流れるような景色に一瞬息を飲んだ。
マルセイユルーレット。
秋がそう気付いた時には、一之瀬はシュートを打ち込んでいた。
静かなグラウンドに、ネットの揺れる音が聞こえた。
「ナイスシュート!」
秋は笑って、背を向けて立っている一之瀬に言う。
一之瀬は少しだけ照れくさそうな笑顔でふりかえり、秋の元へと戻ってくる。
歩きながら彼は口を開いた。
「今日さ」
「うん」
「アキのクラス、サッカーだったでしょ」
「え?うん。見てたの?」
「うん。だって授業がたいくつでさ」
「ちゃんと聞かなくちゃ駄目じゃない」
「もう、秋は厳しいなあ」
あはは、と笑いながら一之瀬は秋の目の前で足をとめた。
「マルセイユルーレット」
「え?」
「凄く綺麗に決まってた。いつの間に出来るようになったの?」
「え、…ええ!見てたの?」
「うん」
一之瀬はまた笑う。
その笑顔が西日に彩られて、何故か秋の胸の鼓動を揺らした。
「昔、やりたい!って言って駄々こねてなかったっけ?」
「だ、駄々こねてなんて」
「出来なくて、泣いてた気がするけど?」
少し意地悪そうな一之瀬の目の色に、秋は思わずぷっと頬を膨らませる。
「泣いてないもん!」
「ははは」
笑いながら、一之瀬は秋の手を取る。
また秋の心臓が大きな波を打ち、秋は目を見開いた。
「…オレの知らないアキがいたよ」
「え?」
「オレ、勿体ない事しちゃったな」
「…一之瀬くん」
暗に、あの事故の後の空白の3年間の事を言っているのだと気付いた秋は
握られている手に少しだけ力を込めて握り返す。
「オレの知らないアキを、全部知りたかったな」
「…」
「時間が戻れば、いいのに」
「…」
「そうすれば、ずっと、一緒に…今も」
「一之瀬くん…?」
俯いた一之瀬の目が少しだけ光を反射する。
その光に秋は目を奪われた。
握られている手が、今は痛いほどの力に包まれている。
一之瀬はそれ以上言葉を発しなかった。
ただ、だまって秋の頬に口づけを落とす。
その意味を問いただすことは、秋にはできなかった。
いつの間にか、空には一番星。
秋の冷たさを載せた風が、秋と一之瀬の髪をふわりといたずらして通り過ぎて行った。